Tsunami Times

  • 美学?

     展示会にも移動に運搬に相変わらず大活躍の92年製の愛車Volvo 240だった。そのディーラーとして日頃お世話になっている吉見自動車の加藤氏が、数年前にシェアした伊丹十三氏の文章が今日またしても元木のfacebook上に現れた。あまりに示唆に富んでいて、元木はこれが好きなものだから、ここにも紹介する。以前にも紹介したかもしれないが。

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    ドイツ車というものは、じつに油が洩れないそうである。あるガレージの親爺がほとほと感心してそういっていた。

    これに反して、Eタイプ・ジャグアはどうか知らないが、イギリスの車というものは実に当たり前のように油が洩る。なんとも欠点だらけだという印象を人にあたえる。

    なんとイギリス人は不器用な国民であることか、と一笑に付す前に、ちょっと考えてみようではないか。一体、油が洩らないようにする技術とはそんなに高度な、困難なものなのか。いやあ、そんなことはないはずだな。いくらイギリス人が不器用だといっても、油の洩らない車くらい作れないわけがない。

    イギリス人にとって、油が洩る、ということは欠点ではないのだ。いや欠点でないどころか、むしろ、それが必要ですらあるらしいのだ。

    ロータスの工場の、あるエンジニアと話をした時、このことを質問してみたら、かれはむしろ上機嫌で答えたものである。

    「あれは、わざとそうなってるんだよ。つまり、われわれは、ドライヴァーに、車というものは決して油が洩らないものだ、という誤った観念をうえつけたくない。金属と金属の間にパッキングをはさんで螺子でしめつけただけのもんだろう。どんなにそれが完全にできてたって、なにかの衝撃で、どうゆるみがこないか、そんなことが保証できるものじゃない。保証できないとしたら、なまじっか油が洩れないという印象をあたえるより、むしろ、車というものは油が洩れるものだ、一刻も油断できない、というふうに考えてもらったほうが故障が少い、とわれわれは思うのだ。それがイギリス人の物の考え方なのだ」

    確かにシェイクスピアを生んだ国だけのことはある。イギリス人というのは実に人間が好きなのだ。そうして、実に人間を観察することが好きなのだ。

    人間を欠点の多きものとして認め、そしてゆるし、その欠点の枠の中で、最良の結果を得ようとする。車にもそれが反映して油が洩る、ということになるのであった。

    さて、もはや原稿を書き続ける時間がない。私は、油の洩るMGTFに打ち跨って仕事場に急ごうと思う。MGTFは、油が洩るうえに、ガソリン計もついていないし、灰皿もついていない。

    そうして、私とこの車は、だめな馬とだめな騎手のように、心が通いあうのだ。

    「女たちよ!」 by 伊丹十三 『だめな馬とだめな騎手』より

    フィッシングショーのうちのブースにて

     これをして加藤氏曰く


    人と道具(車)とのつきあい方は様々だろうけれど、不完全な存在である人が作った機械に完全を求めるのはやはりそれはある種のうぬぼれとでもいうべきもので、こういうふうにひとつでも「遊び」のようなものを残すことで、そのことを戒めることができる。

    油が洩れるものだと知っていれば、油を切らせてエンジンを潰すことはないんだから。

    安全を神話にまでしてしまった原子力発電所で今起こっていることを考えてみれば、この「油の洩れ」の話が教えてくれることは、とても大きいように思えるのだ。


    だと。

    これは言わずと知れたスミスのブースに掲げられていたハトリーズのパネル。玉越さんには羽鳥さんについてのお話を根掘り葉掘りついつい聞いてしまいました

     展示会期間中にはアカシブランド明石とLESS is MORE高橋と飯を食いながら、彼らは酒を飲みながら、いろいろとトップウォーターフィッシングのなんたるかについて議論を戦わすこともなきにしもあらず。特に明石に酒が入ると。

     その場に限らず、元木が度々引き合いに出すのは、玉越さんの言葉。いつだったか、おそらくはスーパーストライククラブの琵琶湖でのイベントの際に、いみじくも図らずも玉越さんの口からこぼれたのは「釣果は二の次で・・・」という言葉だった。この後に続くのは「こんな風に思ったようにルアーが動いていなければ意味がない」(まるで「スウィングしなけりゃ意味がない」みたい。まさに)というような意味のフレーズだったと思う。「釣果は二の次」なんていう言葉があろうことかルアーフィッシング界の重鎮の口から飛び出したことに意表を突かれて、わかってはいたけれど、それがあまりに我が意を得たり過ぎて、その後を失念してしまうという失態に至る。

    Tsunami LuresのピックとTULALAのピック。なぜ釣りにピック?なんて聞くのは野暮である。

     ともかくも、バス釣りを、あるいはルアー釣りを、どころか釣りを文化たらしめる所以はそこに、まさに玉越さんの言葉に集約されると信じて疑わない。

     伊丹十三と玉越和夫という二人の偉人の一見関連性のない言葉だけれど、そこに通底するものがある気がするのは元木だけではないはず。文化とはおそらくそういうことだ。

     欠点はあっても好きなものとなら心だって通い合うし、その遊びのようなものが心を豊かにする。そうであるならば結果は二の次と言っても構わない。それこそは美しく尊いものであると思う。スウィングしなけりゃ意味はないのだ。

    フィッシングショー期間中にNAMIKO氏によってTULALAブースに描かれた絵は、常識を覆していて見事だった。シンパシーを感じる。彼女も元木がルアーに描く絵に共感してくれたというのは蛇足。
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